芸術と人類の進化に関する一考

 

毎年1月末日にはどうも不思議と、自身の人生観、宇宙観に大きな影響を与える出来事が、さりげなく起こるようだ。
先のブログで紹介させていただいた通り、今年は1月28日に、友人の書家、現代美術家、山本尚志氏のプロデュースによるART SHODO SELECTION in Tokyoを鑑賞、翌1月29日にはatelier le matin主催による『子どもの造形表現に関わるひとクラス』に参加させていただき、多くの刺激と学びをいただいた。
そして子どもの芸術表現と大人の芸術表現の差異といったことについて考えているうちに、ふだん巡らない思考が宇宙まで飛んだようなので、以下に概要を書き留めておきたい。

現代アートの世界では、ギャラリストやコレクターによって作品に対する金銭的な値付けがなされるわけだが、それはつまり、目利きや権威が作品の価値を決めているということ。だから「子どもの落書き?」と思っても、「これはピカソが描いたものです」と言われれば、「ほー!」となるわけだ。子どもの落書きは、たとえそれがどんなに芸術的にすばらしくても最終的にはゴミ箱行きで、ピカソが描いたとなれば小切手のサインさえお宝扱いされることになる。
なぜそうなるかといえば、子どもの落書きは一文にもならないが、ピカソの絵は金になるから。権威や目利き(ギャラリスト、コレクターが司るアート市場)によって価値付けされたものが芸術作品、すなわちお宝として扱われ、そこで評価されないものはゴミ同然に扱われるのは、お金で成り立つ世の中としては当然なことだろう。

一方で、大人の事情による金銭的な価値付けなどに関係なく、生まれ出て有るのが子供たちの作品であり、またアート市場には乗らずとも何モノかを生み出し続けている大人たちの作品なのだ。

話は少しワープするが・・・

宇宙の理(ことわり)の中で、人間も含め、すべての生き物が身体的(形態的)な進化を遂げてきた。
「蛇は嫌い」「ゴキブリは苦手」といった個人個人の好き嫌いはあっても、バランスの崩れた化け物は、少なくとも地球上には存在せず、みなそれぞれに息を呑むほど美しく、突然変異も含めて、そこに宇宙の摂理が働いていることが分かる。それと同じように、精神、魂の次元でも、人が知覚できないような宇宙的なペースで進化が起こっているのではないか、というのが私の持論である。

だとすると、権威あるリーダーに多くの人々が従うことは、既存の社会の秩序を保つ上では有用である一方で、もし人々が自ら考えることなく、奴隷の如く付き従うばかりだとしたら、精神、魂の次元での進化は全くもって進まないように思うのだが、どうだろう。

蓋し、芸術は、特別な才能を持った芸術家と、画商やコレクターの手の内に納まるべきものではなく、万人に開かれるべきものであり、芸術の解放が、人類の精神、魂の次元でのさらなる進化をもたらすことを希求する。これは既存のアート市場や書壇の否定ではなく、人類のより幸福なる未来に向けての提言である。
atelier le matinの活動もまた、心身はもとより、精神、魂の次元における成長進化のための、人類の最先端をいく芸術共育活動であり、自身の書芸を通した諸活動もまた、そこに寄するものでありたいと強く願うのだ。

 

のんな保育園、園児たちの作品