千手神社奉納書『神氣千恵』が生まれるまで⛩️

 

正直、もう無理だと思った。
千手神社に奉納させていただくからには、後世に遺る神品を、と意気込んで、中国画仙紙の王様と言われる【紅星牌の星 四尺綿料単宣】に、呉竹謹製の極上墨【天衣無縫】を磨り下ろして書きまくるも、異次元への扉を開くことあたわず。50年以上も書を書いてきて、これかよと・・・
が、ベストは尽くした。心底納得のいく傑作ともなれば、自分が生きているうちに納めさせていただけるかどうかも分からない。ならば、その域までいかずとも、中に及第点の作品はあるだろうから、もういいことにさせてもらおう。ってことで、「もう、いいでしょう・・・」と、自分の中の黄門様を発動
それにしても、作品はどれも我が子のようなもので、これだけ書くと、自分でも、選ぶに選べなくなってくるところがある。

 

『岡目八目』

とはよく言ったもので、こういう時は、人に見てもらうに限る。
しかも好みを超えて、書を深く見定める目を持つ人に。
・・・となると、自分の中で思い浮かぶのはただ一人。それは中学生時代の同級生で、梵字書道の大家である、田邊武クン。彼の書を見る目に間違いはない。書道の上手下手ではなく、より本質的な書の真価を見抜く目と心を持っている
そこで早速、これこれしかじかで、作品を見に来てほしいと彼に電話したところ、だったら今から行くと。
書き溜めた作品を壁に貼って彼が来るのを待っていたのだが、まだ到着まで10分くらいあるからと、残った墨で、もう一枚だけサクッと書いておいた。
で、彼が来て見てくれたのだが、毛氈の上に書きっぱなしで置かれた、その作品を指さして、「これだな」と。
いや、もうショックでショックで・・・・
だって、何ヶ月もかけて懸命に書いた作品には目もくれず、墨が余って勿体無いから使っとくか、ってくらいの軽い気持ちで書いた、アラだらけの作品が一番いいってんだから。
自分なら絶対選んでいなかったし、そのあと何度見ても、とてもいいとは思えなかった。が、たしかに、壁にかけて毎日眺めていたところ、未熟ながら、他の作品に見られるような、「いい作品を書いてやろう」といった意図や計算といったものが無く、素直ではあると。
自分が敬慕する明清時代の書の大家「傅山(ふざん)」も、「巧なるよりも拙なれ、媚なるよりも醜なれ」と語っている。
それに、この作品は、たくさんの作品を書いて、紙を反故にした末に、田邊くんに見てほしいと電話しなかったら生まれておらず、また彼が、だったら今から行くと言ってくれていなければ生まれておらず、しかも、墨も余っていて時間があるから、彼が来るまでにもう一枚だけ書いておくか、と自分が思い立たなければ生まれておらず、また途中で失敗して何度も止めようと思ったけれど、まあ最後まで書いておくか、と落款まで含めて書き切ったからこそ生まれた作品なのであって、様々な機縁が重なって生まれるべくして生まれたのだと。

 

作品を観る、梵字書道家の田邊武氏(2025.1.28)

そう思って見ているうちに、「無為自然」に勝るもの無しとの御神託とともに、書を含めたあらゆる芸術の真価は、表現テクニックやビジュアルから受ける刺激にとどまらず、作品が発する目には見えない波動にあるのだという真理を悟るに至った。
波動というと、何やら怪しく非科学的に思う人もいるだろうが、さにあらず。万物が特定の周波数を出してぶつかり合ったり共振しあったりしてることは、とうに科学的にも証明されている。いや、当代一流の宇宙物理学者が、宇宙の95%はまだ謎のままだというくらいだから、科学的に証明されていなければ真実では無い、というわけでもあるまい。
人間がAIも及ばぬ直感をもって、宇宙の未知なる領域にコンタクトし、宇宙の真理を探り表す・・・そこに、単なる今生の慰みにとどまらぬ、芸術の意義と真価があるのだと思う。

 

『神氣千恵』の書に話を戻すと、実は当初、数点の候補の中から、宮司さんや奉賛会の方に選んでいただくことも考えたのだが、これはデザイン書ではなく、神社に奉納する書であるからして、人様から気に入ったものを選んでもらうようなものではなく、自分がこれをこそ献げたいと思う書を、神様に差し上げるが筋であると思い直し、一点を掛軸として納めさせていただいた。

こちらで、他の候補とした書も合わせてご紹介させていただくので、よろしければ、ご覧いただきたい。
『神氣千恵』桐箱への箱書き〜その1
『神氣千恵』桐箱への箱書き〜その2
・・・ということで、書芸を通した未知なる世界への冒険は、まだ始まったばかりだ。