中国の若き女性書家の書き姿と書に、書法の底力を見る

 

最近、恐るべき中国の女性書家をTikTokで目にした。

燕琳書法

まあ、よく見かけるビジュアル系の書家同様に、見掛け倒しかと思いきや、この若さで、王羲之の書法を自家薬籠中のものとしているのには驚いた。筆を持つ姿も麗しく、その筆先から紡ぎ出される書の、なんと美しいことか。

ご存知の方はご存知の通り、日本では「書道」、韓国では「書芸」、中国では「書法」と呼ぶ。日本人は「道」好きなので、書道、華道、剣道、柔道のように、習い事や稽古ごとには「道」を付けたがる。対して中国では、「書法」の呼び名の通り、宇宙自然の理に即した「理法」を最も重んじているわけだ。
したがって、中国では長い歴史の中で、文字造形はもとより、どのように筆を持ち、どのように線を引くか、という、身体運動としての「書法」が研究され受け継がれてきた。

一方、伝統重視のお国柄のせいか、芸術的、デザイン的な書表現においては遅れをとっていたところがあり、正直、自分もこれまで些か舐めていたところがあった。なんだか、いつまで経っても、古典の名家の書と変わり映えがしない、ワンパターンの書しか見かけないよな、といった感じで。
それが、この若い中国人の女性書家の書き振りと書かれた書を見て、いやいや、これ、ヤバくね?! と目を見張らされたのである。この若さで、東晋時代の書聖・王羲之の書法を極めているではないかと。

歌でも踊りでも、何の芸道でも、初心のうちは基本に忠実にやるものだが、そのうち物足りなくなって、我が出てくるのが常である。
例えば、長渕剛の往年のヒット曲に『順子』があるが、その歌い方の年齢順の変遷を紹介している動画を、最近snsで見かけた。すると、若い頃は素直に自然に歌っているのだが、歳をとるにつれて、クセのある歌い方になっていくのが分かる。それもはやはり、同じことの繰り返しに飽きてきて、何か変化を付けようという欲が出てくるからなんじゃないかと。いや、いつも同じではツマラナイだろうという、ファンへのサービス精神なのかもしれない。私は玉置浩二が好きなのだが、彼にも似たようなところを感じる。それも、老いてますます盛んでスバラシいわけだが、若い時の素直な歌い方の方が好きだ、という人も、けっこう多いのではないだろうか。

書家も、とかく筆慣れしてくると、必要以上に筆をこねくり回したりして、表現過多になることも少なからずあるように思うのだが、どうか。
そんな中で、宇宙の理法に通ずる書法をもって、気取ることも気負うこともなく、いついかなる場でも、常に自然体で最高の書を書き表す「書法」というものの底力を、この中国人の少女を通して、あらためて見せつけられたような気がする。

ただ、若くして書法を極めたこの少女が、将来、どんな風になっていくのかは分からない。もしかしたら、長渕剛や玉置浩二のように、脱皮変身していく可能性もあるだろう。それもまた楽しみではあるが、願わくば、奇を衒うことなく、あくまでも書の王道を歩んで、このままジワジワと熟成させながら、さらなる高みに昇り詰めてほしい気がする。伝統書道の枠からハミ出て好き放題やってる自分が言うのもなんだけどW